1975年5月9日、一家の幸せが崩れ去った。その後、悲嘆と苦しみの44年が過ぎ去った。
忠清北道清州市(チュンチョンブク道チョンジュ市)に住むハン・テスンさん(72)の娘ギョンハさん(当時5歳)は、家の近くで友達と遊んでいた。ハンさんはギョンハさんと一緒に市場に行こうとしたが、娘が友達と遊びたいと言ったため、幼い弟たちだけを連れて行った。しかし、2時間後に戻ってみると、ギョンハさんの姿はなかった。
ハンさんと夫は警察署に駆け込み、失踪届を提出した。他の2人の子供を連れて、ほぼ毎日警察署に通った。「娘が見つかった」という知らせを心待ちにしていたが、警察は「待つしかない」と言うばかりだった。ハンさん夫妻は娘の古い白黒写真1枚を手に、全国の孤児院や精神病院、さらには島まで探し回ったが、娘の行方を知る人はどこにもいなかった。
ハンさんが娘を見つけられなかった理由は後になって明らかになった。失踪から2ヶ月後、養子縁組機関に引き渡されて、海外養子縁組が進められ、その7ヶ月後にアメリカ行きの飛行機に乗せられていた。ハンさんはわずかな望みにかけ、海外養子縁組の家族を探す団体「325KAMRA(カムラ)」にDNAを登録し、成人した娘のモンタージュを作成した。
こうして娘を探し続けて44年が経った2019年10月4日、ハンさんに1本の電話がかかってきた。カムラからだった。ハンさんと遺伝子が90%一致する海外養子縁組者が見つかったという。その約10日後、夢にまで見た娘の姿を確認したハンさんは、喜びと悲しみ、申し訳なさ、長い年月の哀しみが入り混じった涙を流した。
ハンさんは娘が海外養子縁組に出されたことに憤りを感じた。警察に失踪届を出した際、ギョンハさんは迷子として地域警察署にいた。警察が努力していれば、家族と再会することも十分に可能だったのだ。
しかし、そのような努力がなかったと、ハンさんは怒りをあらわにした。ハンさんと家族が国家と当時子どもを保護していた乳児院、養子縁組機関に対して総額6億ウォン(約6640万円)の賠償を請求した理由である。失踪した児童が親と再会できずに海外に養子に出された事例で、国家の責任を問う訴訟は今回が初めてだ。
訴訟代理を務める児童権利連帯は「両親は数十年もの間、娘の生死すら確認できずに過ごさなければならず、失踪した娘は親や家族に捨てられたと信じ、苦しみと傷を抱えて生きなければならなかった」と述べ、「子どもが失踪した後、原告の両親は毎日のように警察署に足を運び子どもを探したが、当時の地方自治体や警察は、法律で課せられている保護者確認義務、保護者への通知および引き渡し義務を履行せず、子どもを養子縁組機関に引き渡すことを黙認し、結果的に迷子の子どもに親を見つけるのではなく、海外養子縁組の需要を満たすために不当な養子縁組が進行することに加担した」と指摘した。
ハンさんには苦しみで失われた時間が恨みとして残った。娘と再会した喜びも束の間、今は言葉が通じず、非常に辛いとハンさんは語った。
ハンさんは「失踪した家族は子どもを探す中で病気にかかり、財産を使い果たし、悲劇的な人生を送っているが、その責任は誰も負っていない」とし、「韓国政府が責任を認め、失踪した子どもの親たちに誠心誠意謝罪してほしい」と憤りを表した。